てんりせいかつ

てんりせいかつ VOL/41
先祖の土地を継ぎ、二人で道を開拓
―前編―

くらし
2023.04.24

第41回

松田果樹園+

松田崇史氏 と 松田庸子氏

「てんりせいかつ」では、天理で自分らしく暮らし、活躍されている方々を訪ね巡りご紹介しています。今回は、36代目の農家として「松田果樹園+」を営んでいる松田崇史さんと松田庸子さんです。地域の農業がどんな風に変わったか、果樹園を継いだ経験、果物の加工品でどんなことを伝えたいかなど、天理市萱生町の果樹園で伺いました。

先祖代々の土地で、果樹園に囲まれて育つ

柿畑が広がる、天理市萱生町。「どうぞ、乗ってください」と松田崇史さんは軽トラックに誘ってくれました。軽トラックは畑を蛇行する細い道を1分ほど下り、ぐるっと曲がってから、小さな空き地にバックしました。緑の葉っぱの間、秋の太陽を浴びた柿は温かくて、深い色彩に実っていました。従業員はハサミを使って、柿を一個ずつてきぱきと採り、肩に下げた小さな籠で集めています。黄色コンテナには、柿が丁寧に並べられていました。

「松田果樹園+(プラス)」は代々続いた果樹専業農家です。ここに生まれて育った崇史さんは36代目であり、小さいころから、収穫の現場に来ています。「昔、収穫の時、いつも畑に連れて行かれましたね。赤ちゃんが歩いて行ったら、危ないから、脱走していかないように、収穫のコンテナに囲いされて、遊んでいました。みんなそうして、大きくなりました」と笑いました。

台風のあとに産まれた柿

現在、松田果樹園+は柿をはじめ、キウイ、八朔、みかんなどを育てていますが、崇史さんの先祖は別の作物を栽培していました。「みかんや果物以前の時代は、やっぱり麦であったり大豆であったりとか。食べ物が本当にない時代だったと思いますので、米麦や大豆といった穀物を中心に栽培をしていたと祖母から聞いています」と崇史さんは言いました。「昭和になる前ぐらいに、米麦や大豆をやめて、みかんと『富有柿』と『平核無(ひらたねなし)』の柿に切り替えました」。

昭和34年の伊勢湾台風は全国に被害をもたらし、萱生町も台風の被害に遭いました。台風が過ぎたあと、意外なものが見つかりました。「伊勢湾台風で、刀根さんのところの平核無が2つに裂けて、突然変異が起こって、『刀根早生(とねわせ)』が産まれました」と崇史さんは説明しました。「刀根さんは刀根早生を富有柿や平核無にみんな接ぎ木して、それで急速に刀根早生の栽培が拡大しました。昭和の50年代から、山の辺の道より下でお米を作っていたみんなは、柿に植え替えて、刀根早生の栽培は本格的に始まりました」。刀根早生の栽培はこの地域から全国へ広がり、萱生町が「刀根早生の発祥地」として知られるようになりました。

平日は会社で、週末は果樹園へ

崇史さんの父親は果樹園をしながら、地域の課題を大切にして、他の農家と連携していました。柿の出荷場で品質チェックシステムを導入したり、直販できるように宅急便の会社と交渉をしたりしました。「父親が『直販したいな』と言って、そこで宅急便と交渉して、毎日、萱生町の生産者みんなを回って、集荷するようになった。そこからみんな直販を始めました」。

父親の姿を見て育った崇史さんは、農業大学に進学しました。「農大を卒業して、同級生のみなさんはすぐ親元就農で実家の家業をしました。私も『農業が好きで、やりたいな』と父親に言ってみたけど、『いったん、社会に勤めた方がええぞ』と言われました」。

最初は家から通えるJA桜井に勤めました。結婚した時、三重県名張市に引っ越し、物流センターに勤めました。妻の庸子さんと2人で名張市に住んでいましたが、先のことが気になっていました。「そのままで、いずれ父親ができなくなるし、できなくなった段階で、家に入っても、生活していくだけの手取りが残らへん状況でした」と崇史さんは思い出しました。「こっちに戻ってきて、やっていけるかどうか、不安でした。家内もかなり協力してくれたね、二人で販路を開拓しないと。スマートフォンやタブレットで道の駅や農産物の直売所を探したりしました。物流センターに勤めながら、家の営業もやって、両方をやっていたんです」。

崇史さんは休みの日や仕事が終わってから、柿採りに帰ってきたり、箱を直売所に持って行ったりしました。子どもが生まれて、庸子さんは家で赤ちゃんのことで手がいっぱいでしたが、販路開拓の手伝いを続けました。「私が果樹園に行っている間、家内は赤ちゃんを見ながら、いろいろと検索してくれたね。私は家に帰ってきたら、『ここ、どう?』と。家内の協力がなかったら、よう戻ってこれなかったと思います」。

果物を新たな形で味わってもらう

平成29年に崇史さんは実家に帰ってきて、果樹園に専念しました。庸子さんは最初はそのまま、会社で働き続けていましたが、果樹園と家の手伝いをするために、萱生町の家に引っ越してきました。2人は数年間、果樹園と販路開拓に集中して、直販を増やしましたが、令和2年に世界中が大きなショックを受けました。

「令和2年、コロナは急に流行り出しました。街に誰もいなくて、取引先にお客さんが行かないから、注文が来なくて、売れ残りました。『これはあかん』ということで、加工を始めました」と崇史さんは思い出しました。「私はノウハウがないけど、家内が管理栄養士で、『家業をするなら、加工をしたいね』とずっと言っていたね」。以前にジェラート屋さんに作ってもらった試作品があり、自分たちでジャムを手がけてみました。令和2年7月に、自家製のジャムとOEMのジェラートの発売に伴って、会社のイメージを少し変えました。「社名を『松田果樹園+』(まつだかじゅえんプラス)にしました。ロゴもデザイナーさんにお願いして、作ってもらいました」。

現在、ジャムは「甘夏マーマレード」「八朔」「みかん」の3種類、ジェラートは「柿」「キウイ」「八朔」「みかん」「すもも」の5種類です。売れ残った果物を活かす取り組みとして始まりましたが、松田果樹園+は加工品を通して、もう一つのことを狙っています。「最近、『果物離れ』という課題があって、果物の美味しさを若い世代の方にも、分かってもらいたい」と崇史さんは話しました。「手軽に食べてもらえるのは何やと意識しながら、家内はこういうジェラートを取り入れてくれた。まず、こういうジェラートから、『美味しいな』と思ってもらって、それが果物の消費拡大にも結びついたら、と思います」。

果物の栽培を担当する崇史さん、加工品を担当する庸子さん。36代目となって6年、二人の想いを聞きながら、加工品の次の展開、地域の課題、萱生町ならではの魅力を後編で紹介します。

松田果樹園+のホームページ

松田果樹園+の公式インスタグラム

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