てんりせいかつ

てんりせいかつ Vol/07
不思議な縁に導かれて
刀鍛冶として生きる覚悟を決めた。—前編—

芸術文化
2018.10.17

第7回

刀匠 布都正崇(ふつのまさたか)氏

「てんりせいかつ」では、天理で自分らしく暮らし、活動されている魅力的な方々を訪ね巡りご紹介していきます。今回は、美しい田園と山々が望める住宅地の中にある鍛刀場で刀鍛治として刀と向き合う正崇さんです。正崇さんは20代で刀づくりの世界に足を踏み入れ、今では刀はもちろん海外からの旅行者が持って帰ることができる玉鋼でできたペーパーナイフの製作にも打ち込んでいる。正崇さんが刀鍛冶の道を選んだ経緯など、ご自宅と工房でお話を伺いました。

灼熱の工房で
刀と自分と向き合う。

ごく普通の住宅街の中、脇道を入っていくとその工房はある。入り口に「布都正崇鍛刀場」と書かれた素朴な看板。外は30℃を超えるうだるような暑さだったその日、工房の中の熱気はそれ以上だった。窓を塞いだ薄暗い工房を進むと飛び散る火花の先で刀匠・正崇さんが笑顔で迎えてくれた。「暑いですよね。わざわざ来ていただきありがとうございます」。そう迎えてくれると、すぐに職人の顔に戻る。玉鋼(刀の材料)の塊を高温の窯に入れ加熱し、しばらくしたら真っ赤に燃え盛る玉鋼を取り出し、今度は水をつけた槌で打つ。最初の一振りの破裂音は凄まじい。一瞬で水が蒸発し水蒸気が爆発するのだ。「熱した玉鋼を打ちのばして、半分に折り返して、さらに打つ。こうした鍛錬を十数回繰り返すことで、玉鋼についた不純物がそぎ落とされ、鋼はその純度と強度を増していくんです」。

正崇さんは天理生まれ、天理育ち。小さい頃からごく当たり前に天理の自然の中で遊んで育った。「小さい頃は小さな川に入って魚を捕ったり、山に行ってセミとかクワガタ捕ったりいつも自然のそばで過ごしてきましたね」。山の辺の道からもほど近い、奈良の山々が望める雄大な場所で小学校、中学校、高校と過ごしてきた。「刀とは縁もゆかりもなかったんですよ。博物館とか美術館が好きだったわけでもなくて。不思議なご縁で刀鍛冶の世界へと進むことになったんです」。

本当にあった
夢のような夢の話。

「刀についてはゲームに出てくるのを知っていたくらいで、名刀・正宗もよく知りませんでした」。正崇さんが刀鍛冶になった経緯は、ご自身でも不思議な縁としか言いようがないと語る。「笑い話みたいな感じで聞いてくださいね。ある夢を見たんです。僕が刀鍛冶でどうやら“清磨(きよまろ)”という名前のようでした。まったく知らない名前でしたし、けったいな名前やなあと思いましたね。次の瞬間、逃げろ!という叫び声が聞こえたので必死で逃げたんです。そこで目が覚めた。そんな夢でした」。その後、夢のことが気になった正崇さんは本屋で刀の本を手に取ってビックリすることに。何と清磨という名前の刀鍛冶が江戸時代に実在していたのだ。「鳥肌ものでした。その偶然が刀鍛冶を意識したきっかけになったのは間違いありませんね」。

やるからにはやり抜くと決め、
天理を離れ室生に修行に出る。

20代のはじめに刀の世界の存在を知ったものの、何のゆかりもない世界。インターネットが今ほど一般的ではない時代に正崇さんが引っ張り出したのはタウンページだった。「ペラペラと見て、刀鍛冶で河内隆平という方がいることを知って、その人の元を訪ねました。自分が見た夢の話をしたら、バカげた話にもかかわらずじっくり聞いてくれたんです。目の前で刀まで見せてくれました。刀で食べていくのは大変だから、じっくり考えてから訪ねてきなさいと言われその時は帰りました」。せっかく教えてもらうからには、途中で投げ出すわけにはいかないと、決断までに1年じっくり考え、弟子入りすることを決めた。天理を離れ、親方の工房がある室生での修行。その後の生き方を左右する大きな決断だったという。

入門5年で作刀認可を得て、
刀匠としての人生が始まった。

いよいよ踏み出した刀鍛冶への第一歩。2000年(平成12年)に河内国平氏の実の弟である刀匠・河内隆平氏に弟子入りを果たす。辛い修行時代なのか?と当時のことを聞くと意外な答えが。「最初から結構自由にやらせてもらっていました。親方の焼き入れも見ながら、自分なりのやり方も考えるように努めていました」。刀をつくるためには文化庁の認可が必要で、入門して5年目には無事に作刀認可を受け刀匠「周麿(ちかまろ)」として活動を開始する(後に正崇に改名)。「また冗談半分で聞いてくれたらいいんですが、夢に出てきた江戸時代の刀匠・清磨の親方の名前は河村寿隆氏なんです。で、僕の親方は河内隆平氏。2文字も一緒。妙に縁を感じてしまいましたね。やっぱりそういうつながりみたいなものってあるのかなと思いました」。

後編につづく===

BACK
Share

この記事をシェアする