てんりせいかつ

てんりせいかつ Vol/17
天から与えられたチャンス。
もう一度、彫刻家として。
―前編―

芸術文化
2019.08.02

第17回

彫刻家
安藤榮作 氏 

「てんりせいかつ」では、天理で自分らしく暮らし、活躍されている方々を訪ね巡りご紹介していきます。今回は、原木を前に手斧1本で木を叩き刻み、大小様々な彫刻作品を発表し続けている彫刻家の安藤榮作さんです。安藤さんは東日本大震災後に奈良県に移り住み、現在は天理で創作活動を行っています。安藤さんにとっての天理とはどんな場所なのか。アトリエで伺いました。

東日本大震災からの避難。
安住の地を求めて。

2011年3月11日、東日本大震災発生。当時安藤さんが活動していた拠点は、福島第一原発から30キロ圏内にあったため、ほどなく屋内退避区域に指定された。家族のことを考え、とにかく福島から出ることを決め、安藤さんの長い避難生活が始まった。「妻の実家が新潟でしたので、まずは新潟に一時避難しました。行政が避難者に住宅を紹介してくれてはいたのですが、私たちは仕事がら木を削る時に音が出ますので公団や団地には住めない。あと、娘が美術系の単位制高校に通っていたので、転校先を考慮するところもあり、そうこうしているうちに2ヶ月くらい経ってしまって」。被災してダメージを受けているのに、さらに安心して暮らせる場所が決まらないことで、家族に諦めムードが漂い始めたのを察し、安藤さんは日本地図をパっと広げると「どこに住みたい?」と問いかけたという。結果は、家族満場一致で奈良だった。「妻が仏像がすごく好きで、娘は神社仏閣や古い町並みが大好きで、私は若い頃から飛鳥の地がとても好きだったんです。避難することは確定しているのだから、どうせなら自分たちが行きたい土地にしようと、奈良へ移住することに決めました」。

奈良県で触れた
人情の機微に涙、涙。

奈良に移住すると決めてからの安藤さんは早かった。すぐに奈良県の窓口に電話を掛けて問い合わせをスタート。ところが、創作活動ができる家と娘さんが転入できる高校が見つからない。「空き家リストを県の方からいただいて自分たちが入れそうな家を幾つか当たったのですが、なかなか見つからず、心配した県の担当者の方が自分の持ち家までリストに加えてくださったんです。その時はその心意気に涙が出ましたね。娘の高校の方は、学校が緊急職員会議を開いてくれて快く迎え入れてくださることになり、その知らせを聞いた時にも涙が零れました」。奈良県に移住ができたのは陰で動いてくれた多くの人達のおかげ。今でも感謝をしていると安藤さんは語る。

「安藤さん、木が必要でしょ?」と奈良県の被災者支援ネットの方々から立木を切った廃材を提供してくれる方がいたり、昔一緒に展覧会をひらいた仲間が余っている彫刻道具を持ってきてくれたり。その後もたくさんの人の支えもあって、ついに「生活と創作」ができる環境が整ったのだという。明日香村で1年半。その後、さらなる活動の場を求めて天理へと足を踏み入れることになる。

天理の地に導かれて、
与えられたチャンス。

今、安藤さんが住んでいるのは、元印刷屋だった物件。被災して苦労していることを思い、大家さんが自費で改修までしてくれたのだという。元印刷屋だけあって大型の機械が置けるように床は強化されており、原木を扱う安藤さんにとっては絶好の創作スペース。さらに、創作時に出る音の面でも、今の場所は恵まれていると安藤さん。「大きな木は斧で削ることもありますが、家の隣は飲み屋さんで夜中までワイワイ若者が騒いでいますし、もう神様から“音出していいよ”って言われているのかなと思いました」。

福島にいる時はサーフィンにものめり込んで、時には彫刻がおろそかになることもあったという安藤さんだが、天理に来てからはまったく姿勢が変わった。「ここまで私たちはいろんな人の手に支えられてこの地にたどり着いたので、その人たちの真心を裏切れないという思いは強くありました」。精力的な活動は、賞としても評価されることになる。第28回 平櫛田中(ひらくしでんちゅう)賞受賞。さらに先日には第10回 円空賞受賞の発表がありました。
「自分達は支えてくださった方々の手から手を渡り今に至りますので、賞をいただいた時は、自分が獲ったという気持ちは全然起こりませんでした。みんなと獲った、そんな気持ちです」。

 

後編につづく==

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