第23回
石上神宮 権禰宜
大塚敬彰 氏
「てんりせいかつ」では、天理で自分らしく暮らし、活躍されている方々を訪ね巡りご紹介していきます。今回は、日本最古の神宮の一つである石上神宮で権禰宜(ごんねぎ)を務める大塚さんです。大塚さんは山形県の出羽三山の宿坊で生まれ育ち、東京の大学で学んだ後に天理の地にやってきた24歳。天理との縁、神主の日常、そして今思うことなどを空気の澄んだ石上神宮でお聞きしました。
実家は東北・出羽三山の宿坊。
大学を出て天理へ。
龍王山(りゅうおうざん)の西のふもと、布留山(ふるやま)の北西の高台に鎮座する日本最古の神宮の一つである石上神宮。大鳥居をくぐると、境内には色鮮やかな羽根を持つ東天紅(とうてんこう)や小国(しょうこく)などの鶏が朝の澄んだ空気に気持ちのいい鳴き声を響かせていた。「お待ちしていました」。鮮やかな水色の袴の大塚さんが出迎えてくれた。大塚さんは山形県出身。天理に来たのはつい最近だという。「実家は山形県の鶴岡市で、出羽三山神社のふもとで宿坊を営んでいます。江戸時代には2、300軒ほど宿坊があったようですが、今では30、40軒ほどに減ってしまいました。そこで代々宿坊を営んでいる家です」。そんな環境で育った大塚さんなので、物心ついた頃から神社は身近な存在。「出羽三山でも神主の資格は取れるのですが、父からも外の世界を見てこいと言われ、大学は東京の大学に進学したんです」。
石上神宮の宮司が交わした
未来の約束。
ところでなぜ大学を卒業後、なんの縁もない天理の地へとやってきたのかは気になるところ。大塚さんに話を聞くと不思議な縁がそこにはあった。「ここ(石上神宮)の宮司は、ここに勤める前に宮城県の鹽竈(しおがま)神社に勤めていたそうなんです。その頃、私の父が6、7年ほどご一緒させてもらっていて。その時に、もし父に息子が生まれたら奈良で学ばせてもらえないか、とお願いをしていたそうなんです」。なんと大塚さんが生まれる前に交わされた約束が24年の時を経て今果たされていた。「ご縁を活かして地元ではない別の神社を経験させていただいて、いつか山形に帰った時には地元を盛り上げられるようになれたらと思っています」。
同じ山でも地元とは違う。
ここは街に近い聖なる場所。
天理に来て3年。東京でも過ごした経験を持つ大塚さんに天理の地はどう映っているのだろう。「大学の近くに明治神宮がありましたが、あそこも自然といえば自然ですがこことは違いますよね。ここは、街があって、その周りを山が囲っている感じ。天理は、“ちゃんと自然に守られている”というのは強く感じます」。
地元も山々に囲まれた自然豊かな場所だが、天理の雰囲気はそれともまた違うという。「出羽三山は本当に山の中ですから。一番の違いは街との距離です。出羽三山神社は山奥にあるのでなかなか一般のお参りの方にはハードルが高いんです。一方でここは天理市内に近いので、市民の人たちと関わりやすいなと感じています」。この日も朝9時過ぎだったが、一般の参拝者がちらほらいた。「ちょうど石上神宮を通って、大和(おおやまと)神社さんを通って、三輪山の方に行くというルートがありますし、人が絶えず行き来する場所に位置しているんだなと感じます」。石上神宮は山の辺の道の起点でもあるため、散策がてら立ち寄ってお参りする人も珍しくない。
「ご奉仕」は掃除から始まる。
神様が気持ちよく過ごせるように。
権禰宜に限らず、神主の1日は掃除から始まる。「朝7時20分くらいに出勤して、一番最初にすることは境内の掃除です。まずは建物を拭くところから始まります。神様に居心地よく過ごしていただくために周りをきれいにするという考えからきています。神様から見たときに、いろんなものがちゃんと整っていて、きれいな状態というのがきっと心地いいですからね。掃除の後、8時半から朝拝(朝のお勤め)。今の時期ですと9時から大体17時が定時になります」。掃除の大切さを知るようになって、自宅の部屋もきちんと掃除をするようになったと大塚さん。学生の頃とは意識がまったく変わったそうだ。
さらに話をお聞きしていると、石上神宮で“奉仕する”職員は、まるで会社のように様々な課で役割を分担しているとのこと。取材当時、大塚さんは庶務課。あらゆる物事が円滑に進むようにサポートすることが役割になるという。「例えば年末年始になると多くの参拝者の人たちが他県からも来ます。うちの駐車場には停められない数の車になりますので、近くの天理教の駐車場をお借りするんです。そういった事務手続きは私たちの役割ですね」。意外なところではメディア対応も庶務課の役割。石上神宮に納められている国宝の「七支刀」の画像への問い合わせはここ最近急増しているとのことだ。「画像をお貸しするだけならいいのですが、原稿の作成をお願いされる時は、毎回ウーン、ウーンと唸りながら書いています(笑)」。